昭和48年03月09日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神の気感に適うた氏子に、お取り立てを頂いて、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代、と言う様に、人間と身代と健康とが、続いて頂けてゆけれるような世界、それが金光大神のおかげの世界です。そういう世界に住まわせて頂く事の出来る、生き縁を頂いたのですから、そういうおかげの頂けれる事の為に、精進しなければならないのであり、修行させてもらわなきゃならんのです。
神のおかげを知らぬから互い違いになる。神のおかげと言う事は、どう言う事だろうか、神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き、身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ、いう程しの、言わば神の大恩と言う事は、どう言う事を指しておられるのであろうか。だから是が非でもどうでも、こゝのところを分からなければ、金光大神の、おかげの世界に住む事は出来ん、だからそこんところを分からせて頂く為に、一生懸命、修行させてもらわなければならん。
私は今日、本当に大変な事、こゝを信じて疑わずに頂いていきゃ、絶対の道そういう風に感じられるような、お知らせを頂いた。そして今日七十八節を頂いてです、神様のおかげを知らぬから互い違いになる。いわゆる素晴らしいタイミングというものが、生れてこなければならない。例えばお金がこゝに百万円要るなら、こゝに百万円現われなければならない、こゝに甘いものが欲しいと思うなら、甘いものが、辛いものが欲しいと思うなら辛いものが、こゝにあらなければならない。
ところが、甘いものが欲しいと思う時に、辛いものが集まって来たり、いわば自分の思いとは反対に、互い違いになっていくと言う様な時に、まず分からなければならない事は、神のおかげを私共が知らんからだと、知らなければいけない。神のおかげを知らぬからだと。御理解第三節に、「天地の間に氏子居っておかげを知らず、神仏の宮寺 氏子の家屋敷、皆神の地所、其理知らず方角日柄ばかり見て、無礼致し、前々のめぐり合わせで難を受け居る。」
天地の間に氏子居っておかげを知らずと、そのおかげを知らんと言う事がです、ついつい自分のものでもないものを、自分のものと思うたり、例えば日柄が良いの悪いのと、方角が良いの悪いのともう天地に対するところの、御無礼を平気でいう。いわゆる思い違い考え違い、天地に対するところの、思い方考え方の違いが、天地に対する無礼だと、こう仰る、その無礼が元で難儀をしておるのだと、ですからこの思い違い考え違いを、どのような風に分からせて頂くか、というとです、神のおかげを知らんと言う事。
そこでね一番分かりやすく、まあ月並みの言葉ですけれども、申しますならば、一切がおかげ、一切が神愛と頂く事なんです。ところがなかなかそれを、簡単な事なんですけれども、頂きにくい、いや頂きゝらない、いや反対に不平を言う、不足をいう、これではいよいよ天地に対する、無礼と言う事になりましょうが。天地と言う事は、天地の親神様と言う事です、
その天地の親神様の御働き、それを、おかげと受けなければならんのをです、それを困った事だと頂いたら、もうそこに御無礼が生ずるわけです、ですから本当いうたら、一切がおかげ、例えば先日から頂く、大和心という、大和心とは一切にお礼をいう心、だと言う様な、大和心がいよいよスッキリと、本当なものに育っていく事が、矢張り先決問題であり、そういう心を頂く事の為に、お互い精進させて頂くと言う事に、しぼっていゝ訳です信心とは。
今日私頂きますのはね。「難儀はおかげの座の招待状」と頂きました。私共は難儀と思うておるのはね、本当のおかげの座に、神様が座らせて下さろうとする、招待状だという事、その素晴らしいおかげの招待状を、私共がです、向うの方へ押し返すような事をしておる、と言う事は、それに対して、不平不足を思うておったり、その為に腹を立てたりしておると言う事なんです。
お礼をいわねばならない事に、腹を立てておる、イライラしておる、不平をいうとる、不足を云うとる、これでは折角の招待状に対するところの、不平不足腹立ちですから、これは天地に対する、神様へ対するところの、御無礼とゆう事になりましょうが。神のおかげを知らぬから、互い違いになると仰る、それを私共がおかげと認識するとゆう事、知る事、分からせてもらう事。
今朝方のお夢に私はある方が、お装束を着ける時の冠ですねえ、冠をお供えに持って来て居られる、おしらせを頂いた、そして私がその方に、御理解しておるのがです、「〇〇さん、七、七、四十九とすると、いつも苦労だ、それからね、十引けば三十九だ」とゆう訳です、七、七、四十九から十ひけば三十九だと、そして、今日のこの御理解を頂いてみてです、私は、成程私共が七、七、四十九でばっかり頂きよる、四十九というのは、いつも苦労と言う事でしょう、しじゅう苦じゃけん。
いつも人間は、もうこの世に苦労しげ来とるとの様に思うとる、もうこの世は苦の世、苦の世界のごと思うとる、それを有難い世界、おかげの世界、と分からせてもらうとゆう事がです、神のおかげを知った人の、頂き方です、神の大恩を知った人の頂き方です。 それを私共はいわゆる七、七、四十九で受けておる。今日私冠を頂いたと言う事はね、頭に頂くものですから、例えば今日の御理解は皆さんが、頭で頂かにゃいけん、そしてね、頭でヾも良いから、そう言うものだと言う事を、知らなければいけない。
そしてこれは一辺に心から頂けるものではない、信心の有難いとゆうものは、今日は頭だけでヾもよいから、今日私が言う事を皆さん、よう分からにゃいけん。本当いうたらおかげなのだけれども、私はこれを、不平不足で受けておる、本当いうたらこれはおかげの、招待状を受けておるのだけれども、有難うございますもいわずに、向うに押し返すような事をしておる、これは神様へ対する無礼である、天地に対する無礼であると、知らなければいけない。
そこでそれを、いかに招待状なら招待状として、有難く押し頂いて、頂くと言う事をです、これは実は本当いうたら、神愛であるおかげである、と言う事だけ、頭では分かってるけれども、ご体が言う事をきかん、ご体が不平不足をいうのですから、それを有難く頂かせて頂く為には、十引かなければならないと言う事なんです。十引くと言う事はどう言う事かというと、例えば自分の身を引くというでしょう。
相対して、例えば討論でもしよりましょうか、いわゆる口喧嘩をしよるとしましょうか、そん時に、私が馬鹿になっときゃよいからと、身を引くでしょう、まあそういう事なんです。それから十引くと言う事は、例えばそこに、七、七、四十九という、四十九を感じておる、事実です、人に叩かれれば痛いと思う、病気をすりゃ難儀である、お金が要る時お金がないなら本当に、こんな切ない事はない苦しい事である。
けれどもそれを只、苦しいで受けたらもう、七、七,四十九で受けておる訳ですから、それを、ようく吟味する、どうしてこういう難儀な事になるのか、いちおう身を引いてみて、いちおう身を引いてよく考えさせて頂くと、あゝこれは七、七、四十九と、四十九で受ける事じゃなかった、反対にお礼を申し上げねばならない事であったと分かる時に、三九(サンキュウ)になる、三九と言う事は、有難いと言う事でしょうが。
そうゆう生き方なんです、頭で今日私が言う事を覚えておいて、そしていよいよそんなら、腹の立つような問題が起った時に、一応そこは身を引かしてもろうて、十を引かして頂いてです、良く良く考えさせてもらいよったら、成程こうゆう目に会わなければならない、いや神様は、こう言う事で私を育てて下さる、考えてみると、これは反対にお礼こそ云わなければならんのに、不平不足を云うておったと分かる時に、四十九から十引いた事になると、三十九と言う事になる。
三十九と言う事は、三九と言う事は、英語で有り難いと言う事、有難うと言う事。そういう風にしてです有り難い、有り難うの答を出してゆくところの稽古です、そういう稽古がです、教えを頂いておらなければ、日々信心の精進をさせて頂いておらなければです、結局天地に対するところの御無礼を、しっ放しで終らんならんから、いつ迄たってもおかげの座への招待状を受けて、そして、そのおかげの座に座るが、いつ迄たっても出来ないのである。こう頂いてみてです。
本当に成り行きを大事にする、御事柄として受けてゆく、と言う様な事なんかに撤すると言う事は、今日の御理解を頂きますと、おかげを おかげと分からせてもろうた人のこれは生き方である。神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続きと仰るが、成程こういう生き方を身につけさせて頂いて、おかげの座に座らせてもらう、しかもそのおかげの座は、段々大きく、広い事になって参りますならばです、成程子供の代よりも孫の代に、もっともっとおかげの座が広がっていくとい言う事が、合点がいきます。
今日はだから、そういう大変な事を頂いた訳です。どういう大変な事かというと、神の気感に適うた氏子としての信心只熱心に参っとります、沢山お供えが出来よりますから、神の気感に適うと言う事じゃない、神の気感に適うた氏子というのは、神のおかげを、おかげと知ると言う事。その神様の大恩を分からせて頂いて、神様は、こうゆう痛い思いをさせてからでも、おかげの座に座らせて下さろうとしておると思うたら、痛いけれども有難い、と言う事になるのです。
神の大恩を知ってきた、だからこの生き方さえ、間違わずに頂いてゆけばです、私共が前々からのめぐりによってヾす、天地に対するところの御無礼によって、難を受ける事になりましょう、けれどもその難とてもです、それは罰を当てなさるのではなくて、よりおかげの座に座らせて下さろうとする、神愛の他ではないと言う事、だから、私共はそれをそのまゝ見らずにです、七、七、四十九という風に見らずにです。
それから自分の身を引いて、考えて見ると成程、お礼を申し上げなければならない事であったと、言う事になるのです。もう私は、金光様の御信心は、これに撤していく以外にはないと思う、だから今日皆さんが、私がこんなにくずらしゅう聞いて頂いておる訳ですけれども、それをひとつ、本当に頭で分からにゃいけないと言う事。冠と言う事は、はゝあこれは頭(かしら)に頂くというですから頭に頂くと言う事なんです。
それを頭で分かると言う事、そして実際問題に直面した時に、頭で分かっておるのですから、それをそんなら行の上に、実の上にそれを頂こうとする、その具体的な生き方を、七、七、四十九、これより十引けば三十九と言う様なです、これはそれを具体的に頂いてゆく、方法を教えて下さったんだと思うです。金光様の信心の修行はそれなんです。一生懸命お参りでもさせて頂く、そういう修行でもさせて頂いておる時でないとです。
そんなら、この例えば、頭では分かっておっても、それをそんなら、身を引いて考えるとゆうような、余裕が出なくて、結局無礼のしっ放しになってしまう。天地に対するところの、神様に対するところの大恩を、反対に仇で返す事になるのです、これではいつ迄たっても、本当のおかげの座に、私共が座らせて頂ける、しかもこのおかげの座とゆうのはね段々大きゅう、広うなってくるのです。
十人も座れるところが、百人も座れるようになり、千人も座れるようなおかげの座に広がっていくおかげをね、目指させて頂くと言う事。まあ教祖の神様という方は、本当に偉大なお方であったなと、こう思うです、あらためて七十八節を、今日頂くような風にして、頂いてみてです、何という素晴らしい表現をもって、説いておられるだろうかと思います。とてもそげん、子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りの、おかげを受ける事が出来る、何かこう宣伝文句のごたる頂き方をしてる人が多いように思う。
事実頂けれる、それを又頂くことが、神様も喜んで下さる事であり、金光大神も喜んで下さる、私共もだから、そういうおかげの座に 座らせて頂けれるようなおかげを、願っての信心でなからにゃならん。信心の修行というけれども、今日私が申しましたような事を、受けてゆけれる事の為の修行が、お道の信心の修行だと、言う事になるのです。
どうぞ。